4コマ漫画エッセイ




は~ひふ~へほー!!
というリアクションは到底でてこない、
かわいらしいちょーさんのあっぱち。

最近ほんとにこれが好きで、
ひとりで両手でパンチをしながら、
「あっぱち!あっぱち!あっぱち!」と言いながら、
部屋を走りまわっているときもあるくらいです。

某ヒーロー、アンマンマンさんの求心力は不思議です。
特に「これがアンパンマンだよ」と教えたこともないのに、
テレビや雑誌に出てくる彼を見つけては、
「あっぱち!」を連呼しているちょーさん。
ここで、
彼には悪いのですが重大な事実を発表しなければなりません。
ちょーさんは、
アンパンマン = あっぱち
だと思っています。
ちょーさんにとって、
アンパンマンはあっぱちであり、
アンパンチもあっぱちなのです。
むーん。

ところで、
皆さんはアンパンマンのマーチを知っていますよね?
実を言うとわたくし不肖パパスは、
あの歌をケータイに入れているほど好きなのです。
ちょっと紹介させてもらうと、
(以下『』内は「アンパンマンのマーチ」より)

『そうだ うれしいんだ
 生きるよろこび
 たとえ胸の傷がいたんでも』

最初の2行はわかります。
でも、幼児向けのアニメの歌に、
『胸の傷がいたんでも』なんていう切ない歌詞を、
入れようと思うでしょうか。

この歌を作詞したのは、
アンパンマンの作者やなせたかしさんなのですが、
彼は第二次世界大戦の折に徴兵され、
終戦まで戦争を前線で体験されたそうです。

彼は、こうも言っています。
http://mi-te.jp/contents/cafe/1-1-343/ より)

敗戦を経験して、本当の正義とは一体なんなんだろうと考えたんですね。
それまで正義の軍隊だったはずの日本軍が、
戦争が終わったとたん、
中国から悪魔の軍隊だと言われるわけです。
正義というのは国によって違う、非常に頼りないものだと感じました。
今もイスラエルとアラブが戦っていますが、
イスラエル側にとっての正義とアラブ側にとっての正義は違うんですよね。
でも、本当の正義というのは、
相手にミサイルをぶち込むようなことではありません。
そこに飢えて苦しんでいる人がいれば、その人を助ける。
それが本当の正義の味方なんです。
たとえば山で遭難している人、
あるいは地震で動けなくなっている人を助けるには、どうしたらいいか。
100万円あげたって、流行の服をあげたって、救うことはできません。
ほしいのは、一切れのパンなんです。
だから、
一切れのパンをあげる人が正義の味方なんだ、
そう思ったんです。


これもパパスの趣味ですが、
鎌倉時代の僧、親鸞はこんなことを言ったのです。
『今に生きる親鸞』より)

人間がこの世でできることなど、善悪問わず、
大したことではない。
人間が自らの計らいで何か善悪をしようとすることは、
本質的なことではない。
だから、
目の前に困っている人がいても、助ける必要はない。
自らの計らいでその人を助けようなんて考えてはいけない。
それでも、
自分の心がどうしても助けないことには済まなかったら、助けなさい。
人間は善も悪も、「無意識に」してしまうものなのだから、仕方ない。
ただし、
「自らの計らい」をもって、「意図的に」やるならば、
善も悪もすべきではない。
なぜなら、
善悪の基準というものは、
人の心のうちに存在するものだからだ。
それを行為や言葉に出し、
他人との公の場に晒した瞬間に誤差が生まれる。
そしてその誤差は善悪の転倒を生み出す。


わたくしパパスは戦争の時代を知りませんから、
おまえの汲み取りは間違いだよと言われるかもしれませんが、
両御仁の言わんとするところには、
おおいに共通する思いがあるように思います。

公の威を借って自らの善悪をさらすことへの無意味、
それを敗戦をもって痛感したひとりの兵士と、
飢餓で人がどんどん死んでいく時代に、
人生をもって考え抜いたひとりの僧が、
アンパンをあげることの素晴らしさと無意味さを、
あぱっち!をくりだすことの静けさを、
わたしたちに語ってくれているような気がします。

『時は はやく すぎる
 光る星は きえる
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで』

アンパンマンのマーチの最後には、
こんな言葉があります。
ちょっと寂しいけど、
前向きにさせてくれる言葉です。

ちょーさん、あっぱち! もういっちょ!


(2012.05.30 UP)

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